3月10日の「東京大空襲」に寄せて ー 日本の統治下にあったパラオへの空襲

はじめに 

 81年前の3月10日,よく知られているように,東京の隅田川東西を中心する地域は大量の焼夷弾によって炎の海となり,10万人以上の方々が尊い命を失いました.近年,東京空襲に来襲したB-29のうち3機が蔵王の不忘山に墜落,また別機が仙台市の現霞目駐屯地周辺に焼夷弾を投下したこと等々が判明.東北一帯も東京空襲と繋がっていました.この後戦争終結まで,各地は空からのB-29,海からの艦載機による脅威に曝されます.

 この頃,日本の統治下にあった国や地域の人々は,どうだったのでしょう?

宮城県にある「パラオ」

 不忘山を臨む宮城県の蔵王町には,「北原尾」という集落があります.
戦時中パラオに移住した方々が,山林だったこの地に引揚げ,懸命に開拓してつくった集落です.北のパラオという意味を込めて,北原尾と名付けられたと聞きました.

 つい最近, 映画「ペリリュー -楽園のゲルニカ-」が話題になりました.

 では,兵士ではない民間の人々はどうだったのでしょう? 数年前にお聞きした北原尾や北海道に引き揚げた方々のお話や,攻撃した米軍の資料から,その一端をお伝えします.

パラオと日本の関わり

ミクロネシアとパラオ諸島2) JUNIS1035)収録図に書き込み
コロール島の絵図1)(元田茂画 東北大学史料館蔵)

 約300の珊瑚礁の島々からなるパラオ諸島….パラオと日本の関係は100余年前にさかのぼります.日本は第一次世界大戦でドイツ領ミクロネシアの島々を占領.1920年ヴェルサイユ条約により南洋群島は日本のC式委任統治領となりました.
 住民に良心と信教の自由がが許与され,奴隷の売買・武器・火酒類の取引・軍事的施設の建設が禁止されました.コロール島に南洋庁を設置し,敗戦までの約30年にわたり「南洋群島」として統治してきました.

 しかしその間,「満洲国」建国を国連に承認されなかった日本は国連を脱退,ワシントン軍縮条約を破棄して,1936年以降軍事基地化を進めペリリュー島には飛行基地が造られました.

 ペリリュー島は南に,70%以上の民間人が住むパラオ本島は北に位置します.南洋庁はパラオ本島に大和村など4つの村を造り,呼び寄せ移民として入植者を募集しました.1943年時点でパラオ諸島の人口は33960人,日本人はその74%を占めました.

<パラオ諸島の概要>
面積:478㎢ (参考:屋久島は504㎢)
距離:約150㎞(鹿児島市~屋久島に相当)
人口:1944年6月 約 3.4万人* 
   1945年8月 約 1.5万人*
燃料用のサトウキビを収穫している入植村の女性たち(工藤静雄氏提供)

パラオと戦争

 このようなのどかな島に戦争が襲って来たのは,1944年3月末.米艦隊の艦載機が,ペリリュー島とアンガウル島の飛行場を中心に爆弾を投下し,激しい銃爆撃を続けました.

パラオの空襲概略1)

 その後の攻撃は図のように,全島を対象とした多数の部隊による間断ない攻撃が続き,9月のペリリュー島の闘いで勝利した米軍は,同島とアンガウル島に飛行場を建設,他所への攻撃の足場としました.その矛先はパラオ外の日本軍のみならず,パラオ諸島全域に潜んでいる日本軍や民間人にも向けられました.
 日本軍は空襲の激化に伴い,他島に住む子供・老人・女性をパラオ本島に疎開させ,在住の民間人に加え軍隊,疎開の人々と,本島の人口は急増しました.

 1944年7-8月以降,海洋封鎖により外部からの食糧供給が閉ざされ,人口の急増に食料事情は逼迫.1945年7-8月には攻撃も激化.パラオ本島に集結した日本軍は山地密林を利用する消耗戦を強要した策をとったと言われます.下図は陣地があったとされる本島西部のジャングル地帯.

ガスパン地区 左一帯のジャングルに日本軍の陣地があると推測される1)

 米軍は,7月以降,開拓村の僅かな耕作地をナパームで焼き払う作戦を実行,食料の逼迫は更に加速し,ジャングルの中で空襲の危険に曝されながら野草や蛇,蛙を探し求め,飢餓で命を落とした人々は数知れないと言われます.最終的に,実数は判明しませんが,民間人の4割が餓死したとも言われています.中でも弱い立場の子どもを直撃したことは言うまでもありません.残念ながら民間人の中の島民被害についての資料はありません.

 以下に,証言の一部を紹介します(参考文献2)より).

証言1:大和村に住んでいたYさんの話

「1945年2月頃だと思うが,家にいた小さい妹と弟が機銃掃射に撃たれて亡くなった.隣の奥さんが栄養失調で弱っていたので,母が何か食べさせようと思って火を炊いたそうだ.その煙を見た米機が家を機銃掃射したんだと思う.妹と弟を直撃した.殆ど即死状態だったそうだ.日中は毎日ペリリュー島から海兵隊の飛行機が飛んできて危険だから,昼間は火を炊いたり,外で畑仕事をしないんだが,よっぽど奥さんを可哀そうだと思ったんだと思う.」

ペリリューからパトロール中の海兵航空隊のコルセア機2)4)

証言2:パラオで産まれたKさんの話

「家族と父の姉2人で最初は南洋興発のあるロタ島へ,そこを経由しパラオ本島マルキョクの南洋興発に勤めた.社宅に居住し,1942年自分はそこで産まれた.戦争が激しくなってきたのでアイミリーキに疎開.戦争が終わる頃,そこで1歳の妹が亡くなった.母の母乳が出なくなったので,栄養失調になったと聞いている.戦後日本へ引き揚げる時,母は妹の骨をもって帰るんだと,気が狂った様になって妹の眠る墓地へ行ったそうだ.」

証言3:燐鉱業のアンガウル島に家族で移住したKさんの話

「島の国民学校で楽しい少年時代を過ごしたが,米軍がサイパン上陸の頃から一段と攻撃が酷くなり,内地へ帰るため,パラオ本島へ移った.アンガウルで同じ官舎に居た人達のその後について伝えたい.

・同じ官舎にいて本島に疎開した隣の家族について.父親は戦死,疎開先で幼い子供2人も栄養失調で亡くなり,母親は発狂して後を追うように亡くなったと聞く.
・官舎のA君は本島のジャングルを無差別に掃討した米機の機銃弾に胸を撃ち抜かれ死亡したと聞いた.
・3軒隣の3年生と1年生の兄弟は,父親が現地召集で戦死.母親はジャングルでの過酷な生活に耐えきれず死亡.兄妹は残留孤児となったそうだ.」
                     (下写真:アンガウル国民学校.近藤一磨氏提供)

まとめ

 日本が空襲に曝されていた時期,南方の小さな島々で,毎日のパトロール部隊の巡視等によって命を落とす人々がいたこと,また耕作地へのナパーム弾投下による極度の食糧不足によって,子供など弱い立場の人が餓死するという悲劇が繰り返されていたことを知りました.日本の統治下にあったが故です.

 私たちの周りでかつてあった戦争の悲劇を思い起こす時,同時に海外へも目を向けて数々の理不尽の欠片を思い起こしてみましょう.そして,今,また海外で進行中の,戦火の下の苦しみに思いを寄せたい.

参考文献

1)新妻博子 馬場俊彦「パラオの空襲-Ⅱ少年少女が駆けぬけたパラオの戦争-」『空襲通信』第25号,pp.23-33,2023年

2)新妻博子「パラオの空襲-Ⅰ-宮城県北原尾の人々の記憶-」『空襲通信』第23号,pp.29-41,2021年
3)CincPac-CincPoa. Information Bulletin Northern Palau.Sept.1.1944. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp-pid/9884475

4) Edited by Tony Holms, US Marine Corps Fighter Squadrons of World War II, Osprey Publishing, 2014.

5)Joint Intelligence Study Publishing Board, JANIS of Palau Islands(JANIS No.103), vol.no.1 of 2, April,1944.
*Action rep-operation against the Enemy in the Mariana and Palau,6 July to 30 July 1944, East Longitude dates.